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丹後ちりめん


今日仕事で訪れた豊岡市但東町は有名な「丹後ちりめん」の産地である。しかし、ある、というよりもあった、と過去形で記した方がいいのかもしれない。戦後、ちりめん機業は好況を迎え、機業へと転業する農家も多かった。これにより但東町の旧資母村で盛んであった機業は但東町全域に広がった。しかし機業は昭和40年代後半頃をピークに衰退し、昭和52年に2,209台あった織機台数は、平成11年には333台と大幅に生産が縮小している。

但東町は兵庫県だが、「丹後ちりめん」の中心は京都府の丹後地方で、今の市町でいうと京丹後市、宮津市、与謝野郡与謝野町あたりになる。しかし但東町同様、丹後地方の地場産業であった織物業も近年、低迷している。「丹後ちりめん」が絹の風合いと感触を最高に発揮する織物になったのは今から280年前の享保5年(1720年)のこと。丹後峰山町に住む絹屋佐平治が京都西陣の機屋に奉公人として入り、織物技法・糸口の仕掛け・シボ(表面の凹凸)の出し方などを研究し、この秘法を丹後に持ち帰り、ちりめんの製織を始め、今日の「丹後ちりめん」のいしずえを築いた。

丹後地方は大和文化と出雲文化の交流地点として古代から独自の文化が開けていた。約1200年前の天平年間には聖武天皇へ「あしぎぬ」という絹織物が献上され、現在も奈良正倉院に保存されている。以来、その気候や風土が生産に適していたために、絹織物は長い歴史の中でこの地方の特産品として培われ、江戸時代中期以降の「丹後ちりめん」の開発へとつながったともいえる。峰山藩の積極的な保護政策などもあって、多様なちりめんが丹後地方一帯で生産され、一大産地を形成していった。

「丹後ちりめん」のピークは昭和30年代、いわば高度成長期とされる。これ以降、貿易の自由化や技術革新等により、価格の安い輸入品の攻勢に晒され、徐々に衰退に向かうことになる。平成になると、危機的な状況はさらに加速、その再生が急務となった。特に機織業者は、集まれば廃業や縮小、新規事業への転換等の話題に終始するようになっていたという。そして今後の生き残りのために、輸入品との対峙を続けるのではなく、技術の伝統と革新による高級品へのシフト、白生地だけの生産だけでなく完成品を販売する高付加価値型産地への転換への取り組みが始まっている。

偶然だが今日11月15日は「きものの日」。11月15日の「七五三」にちなみ、家族そろって着物姿で出掛けてもらおうと、全日本きもの振興会が制定した。
by inaminoTORAsan | 2008-11-15 23:59 | 日常のこと


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